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自己嫌悪はこころに悪い

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自己嫌悪はこころに悪い 

 

 皆さんも時には、自己嫌悪に陥ることがあると思う。

 

「どうして自分はこんなに駄目なんだろう?」

 

「なぜあの時、俺はあんなことをしてしまったんだ」

 

「決めたことも守れないなんて・・・」

 

 しかし言うまでもなく、自分にとって自分とはこの世界で最も重要な人物である。 可愛い可愛い存在である。それなのになぜ嫌悪などするのだろうか?快適に生きるために、自己嫌悪は全く必要がないように見える。

 

 結論から言うと、自己嫌悪は自分をごまかす手段なのだ。

 そして、自己嫌悪をしているとき、自分は二つに分離している。行き過ぎると、自分を失っていくと思う。

 

自己嫌悪による精神の分離

 分離しているとはどう言うことか?

 

 例えば、ダイエット中についついラーメンを食べてしまって、自己嫌悪に陥ってしまった人のことを考えよう。

 彼は体型を絞るためにダイエットをしている。本当は脂っこいラーメンなどダイエットには御法度だが、欲望に負けてついつい食べてしまう。そして食べたしまった後で反省し、自分を責める。「ダイエット中なのに、なんで食べてしまったんだ。自分は決めたことも守れない、なんてダメな人間なんだ」と過去の自分を責める。しかし、この「過去の自分を責める自分」とは一体誰なのか?過去の自分を、今の自分が責めているようにそうではない。

 

 実は、「現実の自分」を「架空の自分」が責めているのである。

 

 「架空の自分」とは「現実の自分」から分離した存在である。「現実の自分」がラーメンを食べた。しかし、それでは自分はただの欲望に負けた意志の弱い人間になってしまう。だから「架空の自分」が立ち上がってくるのだ。ラーメンを食べた自分を責め、「つい」とか「魔が指した」と言って、ラーメンを食べたのは本当の自分ではないと主張する。言い聞かせる。それをよって自尊心を保っているのだ。本当の自分は、ダイエット中にラーメンを食べる意志の弱い人間ではない、と。

 

 自己嫌悪は自分を失う

 しかし自己嫌悪は二者択一に陥った時に、人が取りがちな良くない選択肢だと思う。自己嫌悪は手軽に自分をごまかせるのだ。

 

 つまり、「ラーメンは食べたいが、しかし意志の弱い人間になるのは嫌だ・・・」と言う風に、よくない欲望を持ってしまったが、それをすると自尊心が損なわれる場合に、自己嫌悪は使われる。「現実の自分」はラーメンを食べて欲望を満たしておきながら、「架空の自分」がそれを責め、嫌悪し、自分の人格には全く問題がないと主張する。一挙両得というわけである。

 

 しかし、その態度は人生の充実から程遠いと思う。

 何か悪いことをするたびに、「架空の自分」が「現実の自分」を責め、責任をなすりつける。「架空の自分」はどんどん肥大していくのに、「現実の自分」は何も変わらない。だから落差はどんどん大きくなっていき、最後にはとうとう現実を変える力を失うだろう。

 

 だから、自己嫌悪していると感じたら、気を付けて自分の心の動きを観察した方がいい。

 そして、自分を責めず、自分のやったことは受け止めて、「これからどうするか?」と考えることが、現実を変える唯一の方法なのだ。