世界中を幸せにする合理的な方法。
『幸福論』との出会い
俺は人生の幸福の作り方を、アランの『幸福論』から学んだ。
この本を読むまでは、幸福について深く考えたことはなかった。むしろ「幸福」という言葉を避けていた。宗教的で、怪しくて、薄っぺらい言葉だと感じていた。
でも読んで変わった。自分の幸福について考え、幸福を作り上げて行きたいと思った。みんなにも、アランの『幸福論』の要点を伝えたい。
さて、本書でのアランの主張はとてもシンプルだ。
それは、
「行動せよ」
と言うことだ。
何もしなければ、人は不幸になる
不幸になったり不満を覚えるのは容易い。ただじっと座っていればいいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。
気分に任せて生きている人は皆、悲しみにとらわれる。否、それだけでは済まない。やがて苛立ち怒りだす。
何もせずじっとしている人間は不幸になるとアランは主張している。
自分の経験と照らし合わせると、その通りだと思った。
皆さんは、こんな一日を過ごしたことはないだろうか?
前日に夜更かしをしたせいで、昼過ぎまでベットで過ごす。家にあるインスタント食品で一人の食事をテキトーに済ませる。ツイッターのトレンドをなんとなく眺めたり、スマホゲームをするが、つまらない。いつの間にか外は夕暮れ。5時を告げる鐘がかすかに聞こえてくる。本を読む気も起きない、出かける気も起きない。パッとしない一日を取り戻すため、一人で缶チューハイを開ける。結局満足は得られぬままに、夜が更けていく・・・。
俺はとても覚えがある。こんな風に特に何もせず家でじっとしているような日は不幸だった。
では幸福の形とは何なのか?
幸福は行動の中にしかない
幸福はいつでも私たちを避ける、と言われる。人からもらった幸福についてなら、それは本当である。人からもらった幸福などと言うものはおよそ存在しないものだからである。しかし自分でつくる幸福は、けっして裏切らない。
能動的に身体を動かし、困難があろうとも継続し、そして実際に行動に移すこと。これこそが幸福になるために必要なことだとアランは考えた。
つまらない芝居を観ると、俺たちは退屈するに違いない。でも、自分がその芝居に出演者になったとしたら?間違いなく退屈などしていられないだろう。
幸福になりたいのであれば、傍観者でいるのではなく、自分で舞台に上がらなければならないのだ。
アランの思想はここで終わらない。自分が幸福であると、他人も幸福になる、と言うのだ。
幸福であることは義務である
自分が幸福であると、それが他人に伝染し、他人まで幸福にする可能性が高いという。そしてもちろん逆もまた然りだ。自分が不機嫌だとこうなる。
共同生活が不幸をさらに増加させる。もしあなたが機嫌の悪いままレストランに入って、隣の客やボーイにも敵意のこもった眼差しを送ってしまうとする、もうおしまいだ。不機嫌が顔から顔にすぐに伝わり、あなたのまわりですべてが衝突する。コップは割れる。ボーイは今晩女房を殴る。このようなものごとのメカニズム、伝染の仕方をよくとらえるがいい。
職場でイライラして舌打ちをしている人間がいたら、何だか自分まで苛立ってくる。そしてニコニコして感じが良い人がいると、自分までいい気分になる。納得である。
だからこそ、アランは言うのだ。
「幸福であることは義務である」と。
自分が機嫌は、自分だけの話ではないのだ。周りに影響し、変えてしまうのだ。
そして俺はこんなことを夢想する。
もし自分が最高に上機嫌ならば、俺の同僚や家族や友人も笑顔になる。そうすれば彼らの身近な人も幸福になる。そしていつか世界中に笑顔の輪が広がる。
世界中を幸せにする合理的な方法は、「自分が幸福になり、身近な人を大切にする」だと思った。