読書とは、思考を放棄することである。思考停止に陥らないための読書法。〜『読書について』
読書とは、思考を放棄することである
俺の読書人生において、トップ5*1に入るほどの衝撃を受けた本。
『読書について』とタイトルを付けられているが、ほとんど『読書しないことについて』と言うタイトルを付けた方が、より内容を正確に伝えているとすら思う。
この本の主張の核は、「読書とは、思考を放棄することである」ということだからである。
本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。
読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人に委ねることだ。
一般的な理解はこれとは逆であろう。
「本を読んだら賢くなる」
「本を読んだ方がたくさん考えられる」
「本はできるだけ読んだ方がいい」
これが一般的なイメージだと思う。自分もそう思っていた。
しかしこの本に指摘されて気が付いた。俺は今まで楽をするために読書をしていたのだ・・・。
自分のことを賢いと勘違いしていた
今まで、ニーチェやらドストエフスキーやらロラン=バルト*2やら、背伸びをして難しい本を読んできた。そんな難解な本を読んでいる自分は賢いと思っていた。かっこいいと思っていた。イケてると思っていた。
自分で考えるのは大変だから、エライ人の賢い意見をさも自分のオリジナルであるかのように語り、悦に入っていた。そして難しい本を読まない人間を見下していた。
お前ら馬鹿どもにわかってたまるか。
しばしば、他人から評価されないことや他人から好かれないことを、「自分の頭が良すぎるからだな」と納得していた。そしてますます本を読み、過去のエライ人たちの意見で自分を塗り固めていった。
賢い俺はお前らとは次元が違うんだ。*3
月日が経ち、『読書について』を読み(そして様々な人生の経験を積み)、自分が間違っていたことに気がついた。他人の意見で塗り固めた自分の方こそ馬鹿だった。
たとえ幼稚な意見でも、自分の手触りで意見を作り上げてる人の方がよっぽど賢いし、充実した人生を送っていると思う。
では、読書は悪なのだろうか?本は焼き捨てるべきなのだろうか?もう本は読まない方がいいんだろうか?
俺はそうは思わない。
自分を律し、きちんと向き合い、負荷をかけ、意見を立ち上げるような読書は可能だと思う。以下に、3パターン挙げてみた。
思考停止に陥らないための読書法3つ
1、要約する
読んだものは要約する。 要約とはいえ、短くするにはある程度自分の言葉に直す必要がある。根が同じでも、自分の言葉に直せば、自分の思想がどんどん盛り上がってくる。
自分は重めの本を読む時に、ひと段落を1行で要約しながら読み進める。とても負荷がかかるが、意見を作り出すのはいつでもキツいもの。圧力がかかってこそ、自分の思考・意見が生まれてくるというものだ。
2、感想を書く
ありきたりだが、感想を書くこと。今自分がこの記事でやっているようなことだ。できればSNSやブログで発信した方が良い。その方が負荷がかかる。(そしてツイッターには「読書アカウント」という素晴らしいクラスタがある。)
オススメなやり方が一つある。読んだ時に何か感じたら、それはすぐにメモをしておくことだ。どんなに簡単でもいい。一言でいい。場所は本の余白でも、スマホのメモ機能でもどこでも。例えば、
「理解できない」「衝撃」「違うと思う」「この表現素敵」「やってみたい」
などだ。自分が後で感想書くための取っ掛かりとなる。逆にこの一言がないと書きづらい。
3、実践する
古今東西あらゆる時代・土地で言われて来た、不変の真理、
「とにかく行動せよ」*4
だ。
勉強法の本を読んだらそれを元に学習する。
文章術の本を読んだらそのルールで文を書く。
小説を読んだら表現や構成を使ってみる。
行動して、何かにぶつかれば自然と考えは生まれてくる。
最後に
偉そうに講釈を垂れたが、自分も行動できているわけではない。余計なプライドや、ものぐさや、自信のなさから、行動できないことは今でもいくらでもある。
最近、やっと前からやりたかったブログを始めた。この記事を自分への戒めとして、行動の人になりたい。*5